立春大吉豆腐?
最近、「立春大吉豆腐」言葉を聞くようになりましたが、これは、2003年頃に、出雲大社相模分祠・分祠長がある古い文献に『節分に豆腐は身を清める』と記されていたのを見つけたことにより、『立春』(2/4)と『夏越』(6/30)にお豆腐を、と提案したことから始まったということです。
もともと、古来より白い豆腐には、邪気を追い払うほどの霊力が宿ると伝えられてはいましたが、文献の中に記されていたことにより、本当に縁起が良いのだと多くの人に受け入れられたようです。なかでも、立春の前日である節分に2
月3日に食べる豆腐は、それまでの罪や穢れを祓い、立春当日(2月4日)に食べる豆腐は、健康な体と幸福を呼び込むと言われています。この節分と立春に食べる豆腐のことを立春大吉豆腐と呼びます」
邪気を追い払うと言われているのは、「白い豆腐」なので、お醤油の色に染まらない白いままの状態で豆腐を食べるのが良いとされ、藻塩などをかけて食べて頂くことをおすすめしているようです。
豆腐の発祥はどこ?
それは中国とされています。西暦の紀元前2世紀、前漢の淮南王・劉安の創作にあるという説があります。これは、16世紀の中国の書「本草綱目」の中に〈豆腐は、漢の淮南王劉安に始まる〉と書かれているからです。しかし他にも説があり、豆腐について書かれた文献が唐の時代(618~907年)以降まで無い
ことから、起源は劉安の時代ではないのではないか、もっと歴史を下った唐代の中期なのではないかという説もあります。
ただ、少なくとも唐代中期頃には、豆腐は造られていたと考えられています。
豆腐が日本へ渡って来たのは?
奈良時代(710~784年)に、中国に渡った遣唐使の僧侶等によって伝えられたのではとされていますが、その記録が残っていないので不明です。
一番古い豆腐の記載は、寿永2年(1183年)、奈良春日大社の神主の日記に、お供物として「春近唐符一種」とあり、この「唐符」が最初の記録ということです。ですから、いずれにしても日本で豆腐が造られたのは、奈良・平安時代からといえるのではないでしょうか。
見出し:最初は貴重なものだった
当初は、寺院の僧侶等の間で食べられていましたが、その後、精進料理が普及し貴族社会や武家社会に伝わっていったようです。室町時代(1393~1572年)になって、ようやく全国的にもかなり浸透しましたが、まだまだ貴重なものだったようです。製造も奈良から京都へと伝わり、次第に全国へと広がっていきました。
ようやく庶民の食べ物に
豆腐が日本に渡って来てからだいぶ後に、やっと本格的に庶民の食べ物として取り入れられるようになったのは、なんと江戸時代中期です。徳川家康と、その子の秀忠の時代には村々ではうどんやそばとともに、豆腐の製造も行ってはならず、農民がそれらを食べることも許されない禁令が出されていたほどです。
三代将軍・家光のときに出された「慶安御触書」には豆腐はぜいたく品として、農民に製造することを禁じていました。 その家光の朝食には、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐(豆腐をいったんくずして加工したもの)などが出されていたといいますから、いつの時代も上に立つ者は良い思いをしていたということですね。
ようやく庶民の食卓に豆腐が出されるようになったのは、江戸時代の中ごろから。それも江戸や京都、大阪などの大都市に限られていたのが実情でした。
天明2年(1782年)に刊行された豆腐料理の本「豆腐百珍」は、当時爆発的な人気で、翌年「豆腐百珍続編」、翌々年「豆腐百珍余禄」が出版されたほどです。
当時流行した料理本〈百珍物〉のさきがけとなったといわれております。
その後、豆腐は全国的に庶民の食べ物として普及し、今では健康食品、ダイエット食品としても注目されています。このように、中国から渡ってきた豆腐は、日本の気候、風土、水にとても良く馴染み、また日本人の繊細な気質等にはぐくまれ、日本の豆腐として独自の発展をしてきました。
「豆腐」ってなんで「腐」ていう漢字を使うの?
「豆腐」は豆が腐ると書きます。豆が腐っているわけでもないのになんで「腐る」という字を使うのでしょう?
中国では「腐」という文字は腐るという意味ではなく、柔らかいもの、弾力性のあるものという意味だからなのです。
ですが、日本ではこの「腐」という字を嫌い、豆富、豆冨といったように表現することもあるようです。
見出し:余談ですが、韓国のドラマでよく出てくる豆腐
警察署で取り調べを受けて釈放されたときとか、あるいは、刑務所で刑期を終えて出てきたときに、友人や家族が豆腐を持って待っていて、出てきた人に豆腐を食べさせます。
これは、豆腐で豆腐で身を清めるという縁起担ぎで、真っ白になってもう悪いことはしません。という意味のようです。
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